昭和50年11月10日 朝の御理解
御理解 第27節
「昔から、あの人は正直者じゃ、神仏のような人じゃという者でも、だんだん不幸なことが重なって、世間では、どういうものであろうというようなことがあろうが。なにほど、人に悪いことをせぬ正直者でも、人がよいのと神に信心しておかげを受けるのとは別ものぞ」
これは宗教と道徳の相違を説かれたものと思います。宗教と道徳の根本的な違いと云う物は、勿論宗教と申しましてもおかげを受ける。おかげの頂けれる宗教。おかげ又は御利益というたものはないのだと、宗教というのは心を直していく、それが宗教だと言う様に言う人があります。昨日高橋さん所の、長女の佐多美さんが中学でしょうか、高校でしょうか、たまたま大祭の時なんかにお休みを取るもんですから、先生が聞かれたんでしょう。そして先生と宗教論になって。
そして君のしている宗教は本当の宗教じゃないと。御利益とかおかげを頂くとか、試験の時でも神様にお願いするとかして、それは本当の宗教じゃないと。まあ色々説明したけれども、先生には勝てなかった。どういう説明をすれば良いだろうか、そういう先生には説明してやってもね解らない。説明をして解る為には、も少し金光教の信心を勉強して行かねばいけない。そして理路整然と説明をしてあげれば解るかも知れん。
もうボチボチそういう意味での勉強をしなければいけないだろうねと言うて、話した事でしたけどね。だからそういう宗教ではない。おかげの受けられる宗教ですね。おかげの受けられる宗教、おかげを受けるものは別物と仰る。おかげの受けられる宗教、言うなら人間の幸せの条件というものがです、段々頂ける、足ろうて来ると云う様な信心、宗教を言うのです。そういう宗教と、道徳の根本的な相違を説かれてある。
すからその佐多美さんと一緒に、宗教論を闘わしたというその先生の言われる宗教は、もうそれは道徳と同じです。まあ例えて申しますならば、まあ昔は親孝行と云う事が、盛んに言われました。親には孝行、君には忠と言うた様な、まあそういう修身科がありましたからね。そういう修養の話しを聞きました。何か校長先生がいろんな講話をなさる時に、なら親孝行の話しをなさる。子供心にも親孝行せにゃならんと、こう思うのですから、悪い事は決してない。親孝行の心が愈々募らせる。
けれどもそれは確かに親が喜ぶ。又親が喜ぶのを見れば、自分もまた嬉しい有難いのである。けれども道徳的な親孝行というのはそこまでです。親が喜ぶ。もうそれだけで十分じゃないか、それだけ自分もまた喜べれる。もうそれで十分じゃないか、というのだからそれまでです。ところがです、お道の信心による、なら「信心は親に孝行するも同じことぞや」と仰る。信心は親に孝行するも同じ事ぞや。親孝行が出来る人でなからねば、天地の親神様のお心がわかる筈は絶対ありませんです、実感として。
「信心は親に孝行するも同じ事ぞや」そこで親に孝行する。親が喜ぶそこの所の理が分かるから、天地の親神様に対する親孝行。天地の親神様に報い奉ろうとする信心が生まれて来るです。ですから親孝行の出来ない、親孝行を本気でいうならばさせて貰はねばおられないという。親不孝をしてやろうという者はおりませんけど、偶々意見が相違したり喧嘩したりするのですけれども、初めから親不孝しようと思う者はおらん。
皆親孝行をしたいのですが、止むに止まれんという想いがないから出来んだけの事。そこで信心させて頂いておる者は、信心は親に、孝行するも同じ事という程しの事が解る為にも、本気で親孝行言うならば親と言う事は、先祖にも継ながる事。又はお道では取次を頂く先生は親先生というから、親先生にも継ながる事。また手続きの教会を親教会というから、親教会にも継ながる事。その親を本気で大事にさせて頂く事に、一生懸命にならせて頂く信心にならなければ、親神様の思いが絶対わかる筈がありません。
話を聞いただけでは解りますけど、実感としては親孝行の心とは親がこんなに喜んでくれるものかというものが解らん。と言う様にお道の信心で親孝行が説かれ。お道の信心で、自分の親に対する不孝しようとは思わんばってん、本当は親孝行しようごとしてたまらん。
止むに止まれんというものがなかった事に気付かせて貰うて、もう本気で親に孝行しようという心をお越しますと、成程親が喜ぶ。自分も嬉しいだけではない。それとは全然関係のない、商売が繁昌する様になり。病気が治る様になり。一事が万事に人間の幸せの条件に、全てが足ろうて来るようになるのです。そこが違うでしょう宗教と道徳。
道徳の話はどれだけ、道徳の修養なら修養の話を聞いても、親孝行せんならんと言われるから、一生懸命親孝行をする。それは今日のこの如何に正直者でも、信心をしておかげを受けるのは別物と仰る、だからその正直とか親孝行とかというものはです、只道徳的に説かれ、道徳的に守られただけでは、おかげは伴わない。それこそ一部の方達の様にです、おかげが何か下品なもの。何か邪教的と言った様なです考え方。間違った考え方しとる人には、別ですけれども、私共はおかげを受けなければならない。
教えに従って自分の心をただして貰わねばならない。昨日の御理解にも頂きます様に、信心でいう素直というのは、神様の言われる事を守る。素直に聞く事が素直と。それは家の子供は仲々素直で、親の言う事をよく聞きます。それも矢張り素直だけれども、おかげに継ながる素直ではない。神様の言われる事を聞かせて貰う。それに純粋であり素直であり、正直に正しく直くそれを受けるという、在り方になると雲の上までも登る道が、成程ひらけて来ると言う事が解る。その雲の上までも、登る道が開けて来ると云う事なんです、おかげというものは。
その過程においては、商売人なら商売が繁昌するだろう。病人ならば、病気が全快のおかげを頂くだろう。そういうおかげが付いているのが、信心でいうおかげは別ものというのは、そういう意味なんです。だから信心しとれば不正直でよいと言う事はない。矢張り正直でまた正直というか、本心の玉を研くとか、日々の改まりが第一と言う様な、信心の眼目のところに触れて参りますから、不正直な者でも正直にならなければおられない。 ひねくれて考えておる者でも。
そのひねくれた自分の性根を、教えの鏡に照らして直い生き方をしなければおられない。そして神に信心する事になるのですから、お徳を受けます。お徳というおかげ、それこそ別物と言われるおかげが受けられる。昨日特別奉修員の方達の御祈念をさせて頂きます時に、信心の眼目というか信心の言うならば目当てというのは、喜び安心のおかげを受けると言う事である。安心のおかげを頂くと言う事である。此の様な場合でも平常でおられると言う事は何と有難い事であろうか。
神を信ずればこそ、神のお取次を日々頂いておればこそという喜びが頂ける。その喜びが、おかげを言わばキャッチして行くという、言わば仕組みになっているのが金光教です。おかげは和賀心にあるのです。それは勿論今申します、和賀心でなくても不正直であってもです。ひねくれておってもです。「信心しておかげを受けるというのは別物」と仰る様にそれでもおかげは受けられます。
けれども教えを段々頂いて参りますから、自分のひねくれた所が解る様になり、自分の間違いが解り、言うならば不正直である自分が段々解って来るから、それを改めなければ居られなくなって来る。そこから安心喜びこれはおかげじゃない。安心と言った様なものは、自分の心がそれこそ澄みきった様に、今日は私は御神前でテレビであのカステラのね、コマ-シャルをやってます。
明月堂のカステラです。あれに大きく切って、大きく食べようという、あれがありますよね。キャッチフレ-ズです。明月堂のカステラ大きく切って、大きく食べようと言う事を頂いたんですから、今日の御理解に関連するかと思うたら、大して関連はないごとあるけれども、まあこうやっていろいろお話しをさせて頂いておるとです。所謂あのおかげを受けるというのは、不正直でも受けられるけれども、段々信心をさせて貰って、御教えを頂かして貰っておかげは和賀心にあるんだぞと。和らぎ賀ぶ心にあるんだぞと。
それはいわゆるお徳は、そういう心にならなければ、不正直であったり、ひねくれておっては頂けないぞという、教えを頂きますから、それこそカステラじゃないですけれども、明月堂というね。その明月の様な心のまんまるい心を目指して貰うという。そこんところに段々焦点がおかれて来るようになりますから、別ものという、いうならば、御神徳を受けて行けれる。その過程を、私は安心のおかげだとこう思うです。
今度青年会の方達が、青年集会を致しますその、テ-マをこの頃青年会長が、ここでお届けさして貰いました。そしたら大きくなろう豊になろう」と言う事がテ-マで、今度信心研修をやるわけです。「大きくなろう、豊になろう」というテ-マです。私はその事を思わせて頂いたから昨日頂いた事と、今日頂いた事と照らし合わせていろいろ考えたんですけど、安心のおかげというのは、まあ最高ですけども、今日特別奉修員の時にですね、こう傘をさしている姿を頂いたです。
こりゃ傘は何時も安心と頂くから、安心のおかげだなと。それでその本当に安心のおかげを頂く為にはどの様な信心さして頂いたらよいだろうかと。思わせて頂いたらあのその傘がね、松茸の笠の開いたあれを頂いたんです。ははあこの傘のおかげを頂くと言う事、安心のおかげを頂くと言う事は、傘と言う事は、傘一本で開ける道と言われる様に、安心一つあれば道が開けると言われる。それは安心の事です。傘を一本何時も持っておれば、曇って来ようが心配はない。降って来たところが濡れんで済む。
そういう意味で傘を安心という風に、聞いて頂く訳ですね何時も。それで昨日傘を差している姿を頂いて、これは安心のおかげの頂ける信心だなと。特別奉修員の方達に、この事を聞いて頂かんならんのだなと思うた。それでその安心のおかげを頂く為には、それではどんな信心をさして頂いたら、良いかと言う事になりますとです。あの松茸の傘が松茸に変わったところ、こう傘の様にしとりましょう。
そこで私は思うたんですけれども、松というのは私は、どんなに寒かろうが、雪が積もろうが、色さえ変えぬというのが松の性根ですから、いわゆる豪気なというですか、それこそどう云う事があっても、色さえ変えんで済む程しの、豪気な元気な信心というものが、先ずは必要であると云う事。いうなら皆さんが朝参りをして見える、その朝参り的信心ですね。いわゆる次には茸「竹」です。いわゆる素直です。
それは昨日頂いた御理解からいうと、素直とは神様の御教えを素直に聞く、行ずる事が素直だと云う事。成程この元気な心と素直な心が相まって、信心が出来て行く時に、安心のおかげが頂けると云う事で御座います。そこでです豊になろうとか、大きくなろうと云う事の為にはです、結局自分の心が正されなければいけない。何時か御神前で頂いた、数字の横八というのを頂いた。ああもうどう言う事か解らなかった。
解らんから自分でそれに理解を付けて思わして頂いた事はです、結局ひねくれた心ではいけないと、丸いとこをこうひねくれると8の字になるでしょうが。だからひねくれた心ではいけない。又は本当に腹の中がよじれる様に、腹の立つ時であっても、そこを生神金光大神様と、縋りぬかせて頂くと言う様な事から、信心には必要だと言う風に皆さんに聞いて頂いた。そしたら秋永先生どんが二人で夫婦で参っておった。
そして「先生、今日あなたがお知らせを頂かれたというのは、あれは数学でいう、無限大と言う事の記号ですと言う事を聞かせて貰った。横に8の字を書いた、記号は無限大。それを頂いてから、尚更思った。成程自分の心が、性根がひねくれとるなら、これをこう解かなければいけん。丸い心にもならせて貰わねばならん。それこそ腹がよじれる様な事であっても、生神金光大神様と丸くして行かねばいかん。
と言う事と同時にです、そういう信心をさせて頂けばです。無限大、いうならば無尽蔵のおかげに継ながる事が出来るぞと言う事が、又改めて解った。だから豊になろう、大きくなろうと云う事の内容は、そう云う所の精進が必要なんです。だからね本当にそこが分かったら、だから間違いなしに、無限大につながる事の信心ですから、楽しくなって来るです。そう言う事が、例えば腹の立つ様な事が起こってもです、そこにはね、にこっと笑いたいごたるものが生まれて来る訳です。
はあ、ここを辛抱したら、神様が本当に力を下さるなと、実感として頂ける様になる。信心が楽しうなって来るです。信心は正直者、不正直であればおかげが受けられんとか、悪い事ばっかりしておる者は、と云う様なものは、おかげが受けられんというものじゃない。信心しておかげを受けるというのは、人が善いのと正直者とは別ものだと、でもおかげは受けられる。けれどもまた別ものと言う様なおかげを頂く事の為にです、なら教えを頂く事によって、私共が不正直な者が正直になり。
悪い者が言わば人の善いという、より素直な信心にならせて頂くと言う所から、愈々豊かな大きな信心が育って来る。神様にお願いをして改まりもせず、研きもせずに頂くおかげというものは、神様がいうならば蓮根食って下さるおかげです。おかげが受けられるというても、けれども本当に、神様が喜んで下さるおかげこそが、矢張り御神徳です。だから御神徳を受けさせて頂かなければ、豊にも大きくもなれません。何時まで経っても、人間的な考え方だけしか出来ません。
御神徳を頂きますと、本当にそれは自分の力じゃない。それは神様のおかげですけれども、堪えられない事が堪えられる。御神徳を頂きますと心が何時も豊でおられる。だから愈々おかげは大きくなって行く。おかげは愈々豊になって行くと言う事です。明月堂のカステラじゃないですけれども、大きく切って大きく食べよう。という矢張りおかげを頂く為には、明月のような心を目指さなければならないと言う事。
今日は二十七節から宗教と道徳の相違、しかもその宗教というのは、お道の信心による宗教、いうならば、おかげの受けられる、お徳の受けられる宗教と、普通の修養とか道徳とか言われるところの根本的な、相違を説いてあるのですけれども、ならその上に私共が信心しておかげを受けるものは、また別ものと言われるおかげを頂く為には、矢張り∞ではないですけれども。
これを解いて丸くして行かなければならない。又はいよいよ豊に大きくならせて頂く事の為には、その為に信心辛抱が必要だと、今日は聞いて頂きました。お道の信心によって頂く、いうならばおかげというものは、先ずは神様が蓮根食うて下さって、先ず一生懸命参って来るから、一生懸命願うから下さろうとするおかげ。そのおかげから、神様がもう願わんでも頼まんでも。
いわば喜び下さるおかげへの段階をです、お互いがひとつ進んで行かねばいけません。何時までたっても神様に御無理を言うて頂くというおかげから、いうなら不正直者でもおかげは受けられるのですから、正直者たらしめるよう、正しく直くその信心による所の正しい直い信心にならして貰うて、神様が喜んで下さるおかげを頂かして貰わねばいけんと思うですね。
どうぞ。